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ひさびさにものすごい舞台をみました。26日(金)、歌舞伎座の千秋楽の日、勘三郎さんの『鏡獅子』です。 本当の感動は、舞台の迫力に打ちのめされて、すぐには席が立てない、声が出ない、そういったもので、安易にペチペチ手を叩くことではない、と日頃からおもっているのですが、まあここ10年ほどでも、そのような感動は2〜3回しか経験がなかったのです。しかも、そのすべてがもう10年ほど前のこと、もう最近の舞台では、身体が震えるような感動は無理なのかもしれない、とおもっていた矢先の出来事でした。 千秋楽ということで、勘三郎さんもいつにもまして気合いが入っていたのでしょう。たまたま座席が鳥屋の近くだったので、出の前の勘三郎さんの声がよく聞こえたのですが、それはそれは気合い十分でした。だから後シテの獅子は迫力十分、最後の毛を振る時間もいつにも増して長く、それゆえに多くの観客がものすごい拍手を浴びせたのだとおもいます。 しかし、わたしが感動したのは、もちろんラストの迫力もすごかったのですが、そこにいたるまでの、弥生の踊りがあまりにも素晴らしかったからなのです。踊りの巧拙はいまだにほとんど理解できませんが、さすがに『鏡獅子』は何度も何度もみていますので、伝わってくる雰囲気はよくわかります。今回の勘三郎さんの踊りからは、将軍の前に引き出された娘のとまどい、はじらいから、踊り始めて少しずつ興に乗ってくるさまが、手に取るようにみえてきたのです。その少女に突然襲いかかった、悪夢。目に見えぬ霊に引きずられる弥生の表情がまた素晴らしかった!! ほんとうに久々に至福の時を味わえた、といえる一時間でした。 わたしはこの『鏡獅子』をみると、さいしょにこれを作り上げた、九代目團十郎をいつもおもいだします。あの長くいかつい顔でどんな弥生を踊ったのかを想像するのですが、勘三郎さんはその團十郎さえもしのぐのではないかと、ついついおもっていしまいます。もうひとり、六代目菊五郎という、『鏡獅子』をさらに発展させた役者がいるのですが、これにはどこまで迫っているのでしょうか? いまは古書店でしか入手できない、『鏡獅子三代』という素晴らしい本がありますが、ふたたび読み直したくなしました。 その他の演目の感想です。 『金閣寺』・・・この演目はなんどみてもおもしろくも何ともないとおもっていたのですが、その理由が今回ようやくわかりました。松永大膳という国崩しの大悪人が、全然悪人としての迫力が ないからなんですね。これまでみた大膳の大半は幸四郎さんでしたが、その幸四郎さんが問題なのか、台本が問題なのか?少なくとも、碁で久吉の負けたり、その碁盤をひっくり返したり、つまらぬ謎かけをして、簡単に解かれたり、さらに間者の久吉や正清を見破れず、これまで積み上げた企みが一気にボロボロになってしまう、あまりにもその間抜けさが、大悪人らしくないんですね。たぶん、ここにいたる大膳の悪ぶりを理解しないと、おもしろさが半減してしまうということのようです。 じつは今回、雪姫の玉三郎さんがすばらしく、その想いがいつにもまして理解できただけに、大膳のこの場の間抜けさ加減が際だった、ということのようです。吉右衛門さんの久吉は、さすが。もちろん幸四郎さんの大膳もなかなかのものではあったようにおもいます。 『切られお富』・・・舞台でははじめて観る演目です。この正月一番期待したものですが、う〜〜ん、なんとも中途半端。かなりダイジェストものなのでしょうが、黙阿弥のベタベタした江戸情緒がほとんど感じられません。福助さんにはピッタリの役柄のはずですが、変身ぶりのおもしろさがいまひとつ足りないように感じられます。ちょっと残念でした。 きょうのお弁当:ての字の鰻弁当 |
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